少女時代苦しかったこと(3)憂鬱な長時間の「野外宣教」 おやつ

子供のころからエホバの証人の「野外宣教」というものにまじめに取り組んでいた。
つまりは勧誘活動である。
よく皆さんのうちにも朝から、飯時から、二人連れで「ものみの塔」を持って訪問してくる、あれである。

日曜になると、我が家の隣の家の同年代の三兄弟、Sくん、Kくん、Mちゃんは両親に車でレジャーに連れられていっていた。
私はあれがうらやましくて仕方がなかった。
我が家にはレジャーなど一切といっていいほどなかった。

我が家は日曜、祝日となると、エホバの証人の「集会」か「野外宣教」である。
休みの日はほぼまる潰れだった。

祝日には「野外宣教」の特別版、「特別活動」がとりおこなわれる。
普段はなかなか行かない地域に出向いて勧誘活動をすることである。私のいた地域では山間部に出向くのが習慣になっていた。

我が家は父親がひどい反対者だったので、運転免許を持っていない母親は、私と弟をつれて、他のエホバの証人に頼み、他人の車に同乗して山間部へ出かけていた。

ある特別活動の日、母親は事情で参加できず、私と弟のみが他のエホバの証人に預けられて出かけた。
行きも帰りも2時間以上の道のりで、車の中ではエホバの証人の音楽カセットテープ「王国のしらべ」もしくは日曜日の集会での「公開講演」録音テープがかけられている。

これから山間部へつけば、一軒一軒一般の知らない人々の家をまわり、「うちは宗教なんていいです」「帰ってください」「あー、もういい、いい!」と断られ続けることにびくびくすることになる。
隣の家のMちゃんたちは今頃、海だか遊園地だか行って、楽しんでるんだろうなあ。
私はよそのエホバの証人の大人に監視されながら、これからいやいや営業活動してまわらなきゃならない。帰ったら宿題だ。
ああ、めんどくさ。はやく終わらないかな。いやだなー・・・・。

こんな思いで車の後部座席にいた。
かばんの中には3、4部ずつ持たされた「ものみの塔」「目ざめよ!」誌と、

おやつに、と持たされた不二家のミルキーが一袋入っていた。

私は重々しさに耐え切れず、後部座席で車窓をながめながら、ミルキーを一つ一つゆっくり食べて自分をはげました。ミルクのやさしい風味と濃い甘みが子供の私にはたまらないひまつぶしだった。おいしくて、苦痛がやわらいだものだった。


後日の集会のときである。
私を車に乗せてくれたN姉妹(エホバの証人の間では、バプテスマという献身の儀式をした者を、女性は「姉妹」男性は「兄弟」を名前につけて呼ぶのである)が、うちの母親と話していた。
うちの母親が「こないだは子供たちを乗せていただいてありがとう」というと、N姉妹は

「いーえー、いつでもどうぞ。
しかし、まー、○○(私の名前)ちゃんは、車のなかでずーっと、こーっそりこーっそりミルキー食べてんのよ。」
、と、ひょうきんで知られている普段の調子のままで、大きな声で言い放った。
おもしろおかしく言おうとしたらしい。

母親は「あらまー。しつれいしましたー」
などと笑っていたが、私は例によって・・・
ひどく傷ついた。
●●姉妹は車のミラーで様子をうかがっていたのである。
そんなにだらしない、よくない態度なのであれば、そのとき言ってくれればよかったのに。


別に腹がへってしかたなかったわけではないが、くいしんぼうみたいに言われてなんか違う。
くいしんぼう扱いされた恥ずかしさと、自分なりに色々な不満をあのキャンディでうまく相殺して乗り越えたつもりだったのに、バックミラーでちゃんとみてたのよみたいにバカにされた気分で、目がショボショボした。
涙は出ないんだが、ものすごい羞恥心と見透かされた怖さで。


少女時代苦しかったこと(2)高校時代 ファッション

高校時代、大恋愛をしていた。だから学校にいくときも、できるだけみんなみたいにおしゃれにしていたかった。
でも小遣いもなく、流行のものはことごとく排除されるため、みじめな思いしかできなかった。

高校時代は、靴は校則で規定のものがなく、自由に選んだものを各々履いていた。
わたしはみんなの履いていたadidasの3本のラインとロゴの美しさに惹かれ、すごく欲しくてたまらなかったが(20代になり知ったが、あのグリーンのラインはadidasのスタンスミスであった)、欲しいなんていえなかった。怒られてまた晩御飯があやうくなることや、説教で削られるかもしれない睡眠時間が怖かった。

当時、ブランドものの価値がよくわからなかったので、私はadidasではなくても似たようなスニーカーでいいから、みんなみたいにスニーカーを履きたいと思った。
こわごわ母親に頼んでみると、近くの中型スーパーの洋服売り場で2、3千円くらいでワゴンセールしている(泣)ものの中から選んでよいと言ってくれた。
一生懸命選び、2本のブルーのラインのはいった名もなきスニーカーを買ってもらった。とてもうれしかった。
明日からみなと同じかっこうができると。。。(スーパーで投売りされているような、2、3千円のオッサンオバサンが履くような小ダサいスニーカーで喜ぶ少女時代の私(泣))

ただ、洋服や靴を選ぶコツなんてこころえていない。
買って帰ったスニーカーは、実際に通学で履いてみると、少し歩きにくいような余裕がカカトにあった。。。


高校の坂を上りながら、「このスニーカーは新しいからまだなじんでなくて歩きにくいのだ」とあまりその妙な余裕のことは気にしないようにして、カポカポとさせながら歩んだ。
だが・・・

後ろに続く、隣のクラスの美人とその友人が私に聞こえる声で
「だっさ。大きくないですかあ~ どこのメーカーしかもあれ。 笑笑」

・・・めっちゃ傷つきました。ああ、なんだ、私これ買ってもらってよろこんでたけど、これ普通の人からするとダサいんだ。
ぜんぜんわからなかった。。。
傷ついたふうなど絶対にみせず、あらまあなんか言われちゃった~みたいな無邪気な態度で、相手をにらんだりもしない、あのころのけなげな自分がかわいそうだ。もし自分に娘がいたら、絶対絶対あんな思いをさせたくない。




高校三年、冬。
友人の教室を放課後訪れ、話をし、そのあと下校しようとしたが、その教室に手袋を忘れた。
グレーのモヘアの手袋で、たぶん今思うとデザインはよかったと思う。
ただ、モヘアである。「野外宣教」にも「集会」にも、通学にも自転車を使っていたので、てのひら側はぼろぼろに毛玉になってしまっていた。
例によって、買ってほしいなんていえなくてそのままだった。

教室に手袋を取りにもどると、才色兼備で人気者のMさんとその友人が教室にいた。
特に親しくもなかったので、特に声もかけず、手袋を手に取ろうとした。
後ろから二人の吹き出す声がした。振り返ると二人の視線は手袋にあった。

こんなことなら、手袋じたいをせずに学校にいくべきだった・・・と反省した。そのときは自分が「みすぼらしい手袋をせずに学校にいく」選択をしなかったことを責めた。


そうじゃない。エホバの証人の親らよ、
子供が"古くなってきたから新しい手袋を買って欲しい"といえるような家庭環境をなぜ取り上げるんだ。

今の日本を見てほしい。きちんとした身なりが通用する、それが常識の国である。
新しい手袋を買うことは、ぜいたくでも「世のことを追い求める」ことでもない。

子供はこんな小さな事件で深く傷つく。私はこんな事件だが、これはあとをひいた。
自尊心を非常に傷つけてしまい、大きく自信を喪失した、自分はダサい、ぶさいくで一般の人からみると笑える存在であると思い込んだ。

哀れみをさそって言っているのではない。本当に、そう思っていた。



少女時代苦しかったこと(1)ファッション・美肌と、エホバの証人は無縁

地域によって差があるかもしれないが、「エホバの証人」では、いわゆる”流行”のファッションは禁止である。
うちの母親は流行のファッションには悪い意味で敏感で、流行に近い服装をしようものなら(もっともそんな服一切買ってはもえらないので、たまたまそういう服の組み合わせでできたりすると)めっちゃ怒られた。
母親もわが子のためと思ってするのだろうが、無視や食事にありつきにくくなるなど、生活に影響が出るためそういうことで怒らせる面倒は苦痛だった。

小遣いがなかったので、衣服どころか雑誌なんて絶対買えない。
衣服は自分で選んで買うことができないので、20代になり、上京するくらいまでほぼファッションに関する知識がなかった。
ショップになんか、どうやって入ればいいのかわからない。店員さんに話しかけられたらどうしよう。試着しておいて、断ってなんて出られない、そんなときどう逃げればいいんだろう。
そもそもどういうショップにはいれば、どんな価格帯の服がおいてあるのか、この服は何系なファッションなのか。。。

いったいなんでこんなことで悩まされていたんだろう。本当に苦しかった。

あと、化粧なんかも教えてもらえなかった。10代のころはそれなりに肌が白かったのだが、これがどんなに貴重なものか、当時知らなかった。
「野外宣教」と名づけられた勧誘行為のため、夏休みは60時間以上割くのだが、直射日光にさらされまくりである。
幼少期からそばかすのできやすかった私は、なんと無防備に肌の自殺行為を続けていたのだろう。
冬になると消えていたそばかすは、とうとう消えなくなった。
毎年毎年刻印のように蓄積されつづけたメラニンの痕跡は、とうとう頬にシミとなってあらわれた。
上京し、自分で雑誌を買うようになって、ピンとハリのある顔面の肌がどんなに美人の必須条件か知り、愕然とした。
こんなこと、もっと早く知っていればどんなに気をつけたろう。。。

テレビもだめ、雑誌もだめ、友達と買い物もだめ。いったいどうして「きれいでいつづけるためには、身体に手入れをしなければならない」ということを、なんの知識もなしに知れるだろう。

鳥かごの中の鳥、という表現ならまだ美しい。
そんなのじゃあ表現しきれない。
まるで江戸川乱歩の小説に出てきた、「箱詰めで育てられた佝瘻」だったのだ、一番悲劇的に自分をとらえていた時期には本気でそう思っていた。

エホバの証人が現代的なものを禁止するほとんどの理由は、「性の不道徳」から信者を遠ざけるためである。
インターネット、チャット、ファッション、カラオケ、大学進学。
ファッションについては、「集会」での「発表」や「ものみの塔研究」で、身体のラインにぴったりするものは避けましょう、だのいろいろ忠告される。ミニスカートももちろんだめである。

ミニスカートもぴったりめの服も、アートとして、バランスとして美しいから流行るのだ。
その人をきれいにみせるバランスがあるから、それがよいファッションだと認められるのだ。

書いていて腹たってきた。
だめだ、めっちゃいろいろ思い出してきた。

華の時期を、いったい私はどうしてくだらない過ごし方を強いられなければならなかったんだ。

私について(1)私について

上京して数年、ひどい鬱々した気持ちにさいなまれたのち、やっと思いを消化し、経験を手記に残すことにした。
犠牲にした10-20代を非常にもったいなく思い、悔しさをいだいている。
でも過ぎたことは憂い続けてはならない。
簡単に言えばその経緯、またこの状態から立ち返るための自分への確認のためにこれを書く。
また、わたしは宗教二世問題、デートDV問題について、当事者であるうちはことの深刻さに気付かなかった。悩み始めている、おかしいな?と思い始めている人に、気付いてほしい。その思いもあって容易に検索にひっかかるWebツールを選んだ。

・上京、企業に正社員として勤務。
・都内一人暮らし。
・上京後はじめの2年を、付き合った男性のDV、モラルハラスメントにくるしみながら過ごした。しかしそれを克服。
・20代になるまでを「エホバの証人」いわゆる二世として生きてきた。私の人生、良き点も悪きも、すべてここが基点になっている。

こうしてWebツールに記述することは、非常に悩んだ。
体験を書き綴ることでわだかまりを克服できるのではないかと思ったこともあったが、止めた。
それは自分のぜんぶを公開することだ。失敗したらもっとひどくなる。
回復してから、しかもある程度気持ちがおさまってから、気持ちを消化してから、と思った。

現在に至る。