ラベル 少女時代苦しかったこと の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 少女時代苦しかったこと の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

小3の娘に重い過去を引き継ごうとする毒母

JW関係ありませんが、今でも納得できてない毒母エピソード。
小学3年生の時、母親が「本を買ってあげる」と私に言いました。
私の実家はお小遣いがなかったので、この時の私は非常に喜びましたが、本を買うために書店に行ったときにこれは起きました。

母親は日常的に、不遇な過去をしょっちゅう私に語っていました。
この本を読んだ時、私は子どもながらに「お母さんは昔の辛かったことをどうしても私に理解させたいんだな」と思いました。
また、子どもなら親の不幸を必ず引き継がなければならないんだと思っていました。

なお余談ですが、twitter見てる限りJWにおける毒親発生率は異常だなと思わざるを得ません。




JW思い出供養⑯"霊的に"弱っている高校生私、バスガイドの特権を強制される

"霊的に"弱っている少女時代の私を、特権で"励まそうと"する奉仕の僕。
私自身も非常に頑固な性格ではあったが、とにかく「組織ぐるみで教育するんだ」という押し付けがましさと、嫌だと言っていることでも強要する組織の体質が非常に辛かった。

※ 登場する人物は仮名です。






JW思い出供養⑮自分の存在意義が自虐的になるエホバの証人2世

現役時代の真っ黒な気持ちの生活の中では、自分は他人がいかに幸せなのかを証明するために生きてると思ってました。
"Exist only to be compared with someone else"








JW思い出供養⑭子どもの甘えは許さない!奉仕のしもべ姉妹

親がいない時のハラスメントが嫌でした。JWも世間と変わらない。
"An "EXEMPLARY" JW makes fun of a girl"
※作中の呼称は仮名です。


現役だった子供時代、車で送り迎えをしてくださった人たちには本当に感謝しています。
雨風しのぎ、怪我も防止できたのでかなり助かりました。
ただ、親と離されているときに、出過ぎた指導をしてくる方がいてつらかった。
子どもなら誰もが楽しみであろう、祝日がくるのが苦痛でならんかった。

昔のこのブログのエントリーで書いた、この話を絵にしたものです。
「少女時代苦しかったこと(3)憂鬱な長時間の「野外宣教」 おやつ」











JW思い出供養⑬自転車で、「思い出ぼろぼろ」

つらかった、王国会館への自転車通いの、13年間の思い出をここで成仏させる。
"5miles to Kingdom hall on the Bike for 13 years"













JW思い出供養⑫「サンデー・スリー・ピー・エム」

"Get back our Sunday 3 p.m."

なたは10歳のころ 日曜午後3時に何をしてましたか
わたしは 小学4年生のころとか 高校1年生のころとか 思い返しても
日曜の午後3時に 「集会」で座っている以外に 何かしていた記憶がまったくない



歳から高校を出る18歳まで
計算すると3600時間以上を 集会で座っている時間に充てているのだが
それだけあれば 一般の子どもだと どんな遊びや習い事に充てるのだろうか


たしはと言うと
集会で 次はどんな禁止事項がふえるのだろうかと
思春期のヤマ越えた頃には それを演台から言い渡されるのが
マゾヒスティックな快楽になっていました

あっ 今日は魔法の出て来るアニメが禁止になったな
あっ 今日はよく聴いてたジャンルの音楽が禁止になったな
あっ 今日はとうとう インターネットが見つかっちゃったか


い雑誌に 見慣れないカタカナ文字が突然出てくると
たいてい禁止事項です
野暮ったいおじさん長老が たどたどしく 「オルタナティブ・ミュージック」とか言うのが
おかしくて うっとおしくて だまってシラッとしていた



ういう無味乾燥な 子どもの時間はなんの役に立ったのか


3600時間を








JW思い出供養⑨歪んだ性教育をするエホバの証人

エホバの証人は性に対して非常に偏ったネガティブな思想を信者に強要しており、私も思春期の頃はずいぶん翻弄され、その受け止め方に苦しみました。



JW思い出供養⑧子どものおもちゃで子どもを殴る毒親エホバの証人

車飛び降り事件と同時期、私が6歳当時の話です。
※作中の呼称は仮名です。










ムチの理由を覚えていない
何百回、いや何千回と当てられてきたムチだが、
不思議なことにムチされた理由をどれ一つ覚えてない。
今回の漫画も、実はこの時殴られた理由を覚えていない。

なんで覚えていないかというと、
母親は、同じことをしても怒る時と怒らないときがあり、
何をしたらムチされるのか、子ども当時も、皆目見当がつかなかった。
毎回寝耳に水な感じできまぐれにムチを当てられるので、
当時の自分は怒られた理由がよくわかっておらず、記憶に残っていないのだと思う。


当時の私は何にショックを受けたのか
ショックだったのは、お気に入りのおもちゃを壊されたこと自体ではなく、
私のおもちゃに対して感情をむき出しにした母の姿。
見てはいけないものを見た感じ。

いつものマゴのテを持ってこさせず、おもちゃをムチにしたのはわざとだと
いうのは子どもながらにもわかったが、
そのおもちゃの何が気に入らなかったのか一言も説明がなく
おもちゃを壊してしまったことへのわびも一言もなく
すべて非言語のメッセージで、当時6歳の私に“理由はわかるよな?"と
当てつけられたのが怖かった。


JW思い出供養⑤鉄則を犯してもシレッと戻ってくるエホバの証人


48  DQN丸出しな大島優子のインスタライブにドン引きしつつも、ある思い出と共に強烈なシンパシーをおぼえたAKB総選挙。




※2017/8/12現在、リンク先の動画は削除されていました。






JW思い出供養④男女隣合わせはふしだら!なエホバの証人

中学生の娘から男性を排除する開拓者母。
30代女性のアンタはええんかい、という疑問が残るエピソードでした。





JW思い出供養①走行中の車から飛び降りるエホバの証人

私が小1の頃の強烈に記憶に残っている話です。
私の母親にとってエホバ、集会は子どもの命より大切だった。

というか正確に言うと「必要なものはすべて与えられる」理論で、正しいことをすれば怪我はしない!死なない!みたいな盲目スタイルの信仰なのですね。





ツイッター投稿まとめ:毒親の定義



※この記事のツイートはすべて私見です。

















ツイッター投稿まとめ:現役時代の、大失恋の話










































子供の魂:Reprise




ツイッター界隈ではJW orgのアニメが物議を醸しているわけですが、

↓コピペで
ttps://www.jw.org/ja/%E8%81%96%E6%9B%B8%E3%81%AE%E6%95%99%E3%81%88/%E5%AE%B6%E6%97%8F/%E5%AD%90%E3%81%A9%E3%82%82/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AE%E5%8F%8B%E3%81%AB%E3%81%AA%E3%82%8D%E3%81%86/%E3%83%93%E3%83%87%E3%82%AA/%E3%82%A8%E3%83%9B%E3%83%90%E3%81%AB%E3%81%97%E3%81%9F%E3%81%8C%E3%81%86/





カレブがこのとき、心から「えほばを悲しませたくない!」「魔法のおもちゃを捨てでもえほば喜ばせたい!」と思えるなら、母親の指導がカレブのその信仰心を”助けた”と言えるんでしょう。

そうでないのに、恐ろしいママの形相に怯えたがゆえに首をタテに振ったのなら、それはただの強制でしょう。





そしてママが”代替のレクリエーション”として自転車遊びをカレブにすすめてますが、カレブは遊び終わった後どう感じたんでしょうね。

「あー・・・またうまいこと言いくるめられたわ。まほうのおもちゃ、捨てるのが嫌だった・・・」と思ったのか、
「別のレクリエーションでも十分楽しめるね こっちを選んでよかった!」と思ったのか。

このときカレブが感じたのが本来の彼の生きたい生き方じゃないでしょうか。
どちらを選択したにせよ、それは本来親が怒ることではないのではないでしょうか。


子供の魂:親に隠れてでも、やっていたこと

今回は、親が必死に子供の人生を方向づけようとしても、結局親に子供の思想は変えられないことについて書きました。




###


エホバの証人2世だった私には、子供時代から働きはじめるまで小遣い制というものがなかったので「世のならわし」を仕入れるのに苦労しました。
友達経由で漫画投稿したり、「世の」音楽を入手していましたが、いずれにしても多少の金がかかるのでいつも数百円を工面することばかり考えている悪しき中高生JW(しかも洗礼(献身)済み)でした。

漫画絵の投稿はたいていアニメディアでしたが、載った号を購入するには380円(?確か)が必要でした。
音楽のほうは深夜聞きまくっていたラジオを録音する膨大な量の記録媒体とか、友達に借りたカードでレンタルCDを入手する数百円がいつも必要でした。

で、カネを工面する方法なのですが

小遣い制度はないものの、祖父母の家にいくと毎回「へんな宗教のせいで不憫だから」と小遣いがもらえました。
しかしこれは基本的に全額JW母が没シュートします。
ところが「読みたい本が」「服が古くなった」など具体的な使途があればいくらか子供の手元に残しました。

こういうイレギュラー収入で得たカネで買い物をし、釣り銭でうまく差額を発生させ、母親の把握していない金額を作る、つまりマネーロンダリングして数百円を生み出していました。


高校のとき小遣い管理が厳しくなり小遣い帳をつけさせられた時期があり、この時はかなり苦労しました。
結局、じいちゃんにもらった小遣いから、親に渡す前に500円抜いておくという、良心の痛む方法を取らざるを得ませんでした。


抜いたカネは押し入れ上の天井板を剥がして屋根裏に隠していました。
購入したアニメディアとかもです。


※これらは社会人になって忘れた頃に母親にみつかりました。
また発狂されるかと肩をすぼめましたが、意外にも母は怒りませんでした。
「こんなところから……なんか……でてきた……ね……(´・ω・`)」
みたいな感じで、恐らく子供への過度な規制が招いたことなのね……、と悟ったような珍しくしょんぼりした態度でした。
知るか。


アニメのビデオ予約してくれたり、レンタルのカード貸してくれたりとか、漫画投稿のため住所貸してくれたりとか、中高生のときの(世の)友達にはずいぶん助けられました。
「サタンの体制に染まった」世の人々に大変めぐまれ、今の私があります。


何が言いたいかというと、多分当時の私はあれだけ規制しまくられていてもああいうことがやりたくてたまりませんでした。
そしてそれらの活動を絶対に親に見つからないという自信がありました。
そのくらい念には念を入れめちゃくちゃ注意していました。
それから、たとえ見つかったとしてあらゆる手をつくして隠れて続けたと思います。


で、結論なのですが、子供はある程度知恵がついたら、物事を規制・強制することで思想の根本を変えさせることは無理です。
若い人間のリビドー(ここでは性欲ではなく)は、それを忘れた大人の想像のナナメ上を行く激しさで、その表現欲や渇望はものすごい圧力でさからえません。信じられないパワーで目標を達成しようとします。


なんとしても実現するときにはもう、その子の核にはエホバの教えより大事なものがあるのです。
エホバの教えがもともと根ざす苗床ではなかったということです。
これは親の育て方の問題ではなく、その子供の本来の姿なのだと思います。

多分それをダメだと取り上げたりするならば、必ず何らかの形で問題が発生するでしょう。
ケンカ、うそ、不和、不機嫌、反抗、嫌悪、八つ当たり、隠し事。

親が教育や鞭でもって子供の自己まで変えようというのは越権だと思います。

教育やしつけは、何者にも騙されないで済むように、また限られた人生をより効率よく使う方法を伝授することにすぎないと思います。

子供と言えど単独の人格であり、親のクローン人形ではない。アナタが腹痛めて産んだかもしれないが、懐痛めて育て上げたかもしれないが、子供はアナタとは別の人格であって、アナタに人格のクリーンインストールを任せているわけではない。

それの証拠に、親は子供よりも先に、または子供とは別に死んで行く。
他者から解放された一個体なのだと思います。



脱会できない二世が甘えていると言われる

二世として暮らしていると、学校や職場などで、

大変ね、つらくないの

というようなことを言われた。

正直しんどい、制限が多くてつらい

というようなことを漏らすと、決まって

なんでバイトして家出ないの?
親に黙ってバイトすればいいじゃん
お父さんに頼んで、大学行かせてもらえば?
20歳すぎてるんだから、勝手に就職すればいいのに
20歳すぎてるんだから、自立すれば?
20歳すぎてるんだから、自分で決めて好きなところにいけば?
20歳すぎてるのに、なんで家出ないの?

という反応が返ってくる。


甘えだ、自立するのが怖いんだぁ、親に養ってもらってラクしたいんだぁ、
と誤解されるのはしょうがないだろう。
たぶん洗脳というやつは、経験した人でないと絶対に理解できないと思う。


現に私は、洗脳に気付き、自分の人権を侵害されているのに気付いてからは、遠く実家を離れる計画をし、すぐに実行に移し、社会や会社のしくみを一から恥ずかしい思いを毎日しながら自らに叩き込み、正規雇用の立場をついに得た。

本当に甘えていて、自立が怖かったのなら、成人後もそのような生活を送っていたのを痛みをともなうのがわかっていてやめるはずがない。
私は身をもってそれを証明した。


甘えていたから家を出られなかったのではなく、そう出来なかっただけだ。
チャンスはもちろんなく、それよりなにより、それを実行する手がなかったし、知識を得る方法を完全に断たれていたからだ。



塾に行くこと(進学に縁を与えない)
友達と買い物に行くこと(社会性を身につけさせない)
収入を得ること(独り立ちさせない)
雑誌、漫画、テレビ、映画、ゲームの禁止(余計な知識を身につけさせない 憧れ、目標、野望や欲求を抱かせない)
音楽、服装を監視する(流行に乗らせない 男女の縁を与えない あえて一般の人から差別されるように仕向ける)



子供のころ、楽しみにしていた学校行事が近付くと、エホバの証人である母親の機嫌が突然悪くなり、原因がわからず苦しんだ。
時間がたった今はわかる。
学校行事が近付いて、子供が社会とべったり交流する機会を得てしまうからだ。
自分の手を離れ、余計な知恵をつけてしまうことに恐怖を感じていたからだ。

とくにひどかったのが修学旅行の前だった。
つまらないことで

”反逆した!”

とキレはじめ、とうとう

”明日は(修学旅行など)行かなくていいからねやめなさいお金出さないから”

とまくしたてて脅す。
お小遣いなど一銭も与えられなかった私は、修学旅行をただ取り上げられ、なすすべもない。
目の前でスポンサーがキレている。ああ、終わったな。

そのほか、母親の機嫌をそこねてしまうと、"聖書の出版物"を開いて夜中の1時2時まで延々といびりが続いた。
私は次の日起きられず遅刻するのが怖かった。テストに影響が出るのが恐ろしかった。

食事も禁止された。その他、衣食住にかかわる一切のことを母親は放棄した。

普段は私ら親子三人を虐待する父親の食事はきちんと作ってならべる。
それを見せつけ、普段はいがみあうだけの夫婦のくせに気持ち悪いくらい仲良くしながら、

”悔い改めるまでは、一切あんたの世話はしない”



こういう出来事は月に何度も発生した。
学生時代は小遣いなどなかったため、自前で食事やその他生活費を工面できない。
冷蔵庫内のものは

”あんたたちの物ではない さわるな”

である。



じゃあアルバイトして稼いでおけ??
出来たらとっくにしたわ。

帰宅時間の理由や、買ってきたもの、誰とどこで何をしていたかをきっちり管理されているのだ。
ばれずに行動できる時間や場所などない。

じゃあ反抗してでもなんとかしろ?
出来たらとっくにやったわ。

怒り狂うとどこでも追ってくる人である。他人が見ていようと、家族が恥をかこうと。
反抗することは、周囲にとんでもない恥をかき、逆に自分たちの世界を狭めてしまうのだ。
アルバイト先も、おそらく大概のところはその状況を見れば即解雇するだろう。


誰かのところに転がりこめ?
一体誰のところに??誰が親のある他人の子を養ってくれるのですか?
それと、一銭も金がないのにどうやってそこまで行くんですか?誰が恵んでくれるんですか?助けてくれる人をどういう手段で探し当てるんですか?



卑怯な手段だ。
世との交わりをもたせない、を理由に社会に出る手段を禁止する。
衣食住、そして生活を盾にとり、服従を要求する。卑怯なことこの上ない。



私が社会とリアルな接点を持てたのは、インターネットとの出会いがきっかけだった。

就職の仕方、
ハローワークのこと、
まともに全時間働けば、20万円くらい収入を得られること、
水道・光熱費がどのくらいかかるか、
食費は一人どのくらいが適当なのか、

雇用保険のこと、
銀行の使い方、
役所の手続きの仕方、

ネット上で顔もしらないような遠くの人と交信できること、
ネット上に求人がのっていること、

ネット上で賃貸物件が探せること、
4万円もあれば、安全できれいな部屋に住めること、

夜行バスに乗れば安く移動ができること、
素泊まりで5000円の、安全できれいなホテルがあること、



ここから私の人生がスタートした。
私はこんなこと全部できる。と思った。



私はひとりで絵を描いたり、好きな男と遊んだり、休日には家にこもって大音響で好きなロックをかけておいしいものを食べたい。
自分の収入を好きに使って生活を成り立たせたい。

と思った。


思ってから1年で、開拓奉仕のかたわら月数万円のパートの収入をため、就職・引っ越し費用を作った。
職業訓練校の制度を使い、補助金をもらいながら東京で生活する手配をした。
訓練校の該当コースの試験も突破した。


コースの入学日が確定したところで、同時に就職活動をはじめた。
一社目で内定を取った。
訓練校はこの時点で不要となったため、辞退届をした。


初出社までの5日間で引っ越しをするよう指示され、マンションの内見・契約と、役所関係、銀行、インフラすべての手続きを5日ですませた。
引っ越し費用と物品購入で、ちょうど貯金は手元に生活費を残して消えた。

派遣での仕事を数年経験したあと企業に正社員として入社。



私は自分がビビッてはいなかったことを証明した。








母親の問題

以前書いた記事の引用です。


幼少期、一番怖かったのは、母親がPTAの役員などになり、会合などで出かけてしまうことでした。
つまり、家に私たち子供と父親だけが残されることを非常に怖がっていました。
母親は
「いつもエホバに祈りなさい。お父さんは人間なのよ。あなたたちの親なのよ。敬いなさい。怖がることないのよ。」
といつもいっていました。




私はこれは、少し教育熱心な母親のよくある姿だと思っており、今まで異常とは思っていませんでした。
私はむしろ、このあと発生した、父親の暴力のほうに完全に注意を奪われていたのですが…

これにはもっと重大な問題が隠れていたんですね。


母親に日常的に暴力を振るい、子供とは親子関係が完全に破綻している夫がいるところに、
小学低学年の子供ふたりを置き去りにして出かける、
このこと自体が異常だったんですね・・・。


子供の年齢に不釣合いな行動を期待し、(上記の件でいうと、父親の暴力行為を見ても逃げずに毅然とする、ということ)
子供がそれをやり遂げることで自らの何かを満たすということで、間接的に支配していたんですよね。

最近の傾向はどうだかは知りませんが、私の幼年期、「バプテスマ」(意味・詳細は別途お調べください)を
小学生の頃受けた子供やその親は模範的ともてはやされていました。

祈っても何かの方法で助けてくれるわけではない神、矛盾した理屈※1で人間界の苦しみや悪事を放置している神、
そんな神様に対し無条件の服従を誓う行為を、年齢が二桁にとどかない子供に要求するのです。

※1 エホバ神は絶対の存在で、この世のすべてのものより強く、不可能はない。
だが、そのエホバの創造した完全な人間アダムとエバは罪を犯した。このこと自体、神が創った創造物は不完全だったということになるのではないか。

更に、神は不完全になった人間を修正するのではなく、サタンと人間と神の間に論争を置き、一定の期間人間を放置し、不完全な人間の中にも神に絶対服従を成し遂げる者が必ず存在してくるはずなので、つまりエホバ神がやはりこの世で唯一正しいのである、という教義。
またそれを証明するためにやむを得ず、人間界の悪や苦しみが一時放任されているという理屈。
不可能はないはずの神が、不完全なものにわざわざそれを証明してもらわねばならないのか。
万能の神が自ら愛するという、自らが造った欠陥のある人間に、苦しみを強要せずとも他のすべてが丸く解決する方法をとらないのはなぜなのか。
その方法が一番よい選択だったのであれば、つまり人間が苦しまなくてよくすることが「不可能」だったということなのではないか。



大人ですら理解に時間の必要な、サタンと人間と神をめぐる裁判・証明の期間というものを
理解した、と名言させ表明させるバプテスマ。


年齢につりあわないことを強要し、なぜと疑問を抱くこと自体が不信仰と決め付け
成長をにぎりつぶして子供の精神を殺していく教育。

いつだったかエホバの証人の雑誌だったか本だったかに書かれていましたよね、
長時間にぎりつぶしたバネのように、子供をしてしまわないように、との説教。


それをやっているのは、あなたたち教団と、無意識に子供を妬みとフラストレーションの
捌け口にしている、あなたたち母親の皆さんです。










父親からの迫害時代

私はエホバの証人時代の苦しみと、現在の「後遺症」を戦略的、計画的に克服すべく、しばらく前から自分がなぜこのような人生を歩むことになったのか、分析をはじめました。
まずはなぜ私の母親がエホバの証人になったのかを紐解きました。
そして幼年期の断片的な記憶をここに残します。


エホバの証人時代うちは特に、ひどい部類の「迫害」(家族など身近な人から、信心を棄てさせようとひどい扱い、圧力を受けること)を受けていました。
未信者であった父からです。しかし父親の暴力は、母親がエホバの証人になる前からあったのです。



私の両親の結婚当時、父は20代後半、母親は20歳になりたてでした。
父親は甘やかされて育った人で、母親と結婚後すぐにDVがはじまったような、元々暴力的な性向の人でした。

母親のほうといえば、私はこの母方の祖父母に非常にかわいがられましたのでよく知っていますが、この祖父母に非常にきびしく(しかし常識的に)育てられた人です。
訊いたことはありませんが、おそらく父親が男性として付き合った初めての人だと思います。
母親がいつか私にぽろっと言ったのですが、「結婚するまで、暴力をふるう人だというのをまったく、ぜんっぜん気づかなかったの。」だそうです。
母親は社会経験も非常に乏しいまま、因習の強い家に嫁ぎ、DV属性の恐ろしい夫に仕えることになりました。

母親は結婚には若すぎたのです。これは自らも言っていました。若すぎたのよ、と。
社会経験は乏しいが、若さだけがつっぱしり、一生懸命すぎたのです。
とついで来た家で、よくあるドラマそのまんまの、親戚からのいじめがはじまりました。
いじめの原因は、父親の気まぐれです。
��V属性の男の特徴は別サイトで詳しく調べていただくとして、その傾向まんまの男でした。
メシが気に入らない、メシのタイミングが悪い、他にも空が曇ってきたのにフトンを屋根にほしっぱなしだっただろう?というような、自分の目で確かめたわけではないことをあることないことデッチアゲては暴力のネタにしていたようです。

私の3歳頃の記憶だと思われますが、コタツ机をはさんで向こう側とこっち側で両親が私のオモチャや、そのへんにあるモノをお互いなげつけあって、私と弟がなきわめくのもかまわず戦争をくりひろげていました。

親戚の婆さんが昼間に突然訪れては、若い嫁に茶を出させ、偉そうにネチネチと説教やイヤミをのべ、かえって行きます。
そして父親にあることないことをチクっては暴力のネタを追加していました。
��いまさら私が擁護するのもナンですが、母親ほど家事を完璧にこなす人間はいません。これほどまでイジメのネタがほしくてたまらない野獣一家に嫁いできたのです)

とついで来たくせにメシを食らうだけなのか、働け!という父親に従い、母親は近所会社勤め始めました。
しかし、仕事をはじめて数日後、あることないことを吹き込まれて逆上した父親が自ら、会社に母親を迎えに行き、
「今すぐ辞めて帰宅しろ」
と連れ帰ったそうです。
その後はDV経験者なら想像がつくでしょう、
「タダメシ食らいめ」
「働きもしないで親戚や近所中の笑いのタネになりやがって」
という、典型的な嫁いびりの地獄が繰り広げられたのでした。幼少の私の記憶にもこれらの出来事のパーツが残っているのです。



この頃かと思われますが、母親は聖書研究をはじめました。私が3、4歳のころです。
社会経験も人生経験も乏しく、幼い子供を2人かかえ、おそろしい親戚の野獣どもにおびえた若い母親はワラにもすがる思いだったのでしょう。
昼間たずねてきたエホバの証人の、弱者をとりこむあの”証言”にまんまとかかったのでした。
学生時代から読書好きだった母親は、すでに聖書に関する解説書などを何冊も所持していて、親しみがあったものと思われます。

そして私が小学校にあがるころには本格的にエホバの証人の集会に出席しはじめ、伝道(エホバの証人の布教活動)にも参加するようになりました。
それから1年たたないうちに、父親から迫害が始まりました。
ここからは私の記憶にも強烈に色々と残っています。



小学2年生の時でした。朝学校に行こうとするとランドセルがありません。
前日の夜、宿題を済ませたノート、時間割どおりの教科書、連絡帳、絵の大好きだった私が必ず持ち歩いていた自由帳、小学生の女の子なら誰もが大事にするペンケースと大好きな鉛筆や消しゴムがすべてつめられていたランドセルです。

寝る前にいつもの場所にきちんと準備していたのに、どこを探してもないのです。
探すうちに時間はながれ、登校班の出発時間には間に合わず、私は遅刻することにおびえて泣き出してしまいました。(当時の学校教育は厳しいもので、遅刻や欠席、忘れ物はものすごい恥ずかしい思いをさせられたものです)

昼近かったでしょうか、あるわけないと思いながらも母親は捜索範囲をひろげ、フロ場のドアを開きます。


・・・真っ赤なランドセルが湯船に浮いていました。
中身の教科書は水分を含んでヨレヨレでした。鉛筆などは一日乾かさねば使えない状態だったでしょう。
ノート類は買いなおさねばならなかったでしょう。

2年生の残りの月日は、ヨレヨレの教科書をそのまま使い続けました。
私が恥ずかしいからなんとかしてほしいというと、母親はスーパーの包装紙を使ったブックカバーをつくり、教科書にかけてくれました。
でもスーパーの包装紙なんかかかった教科書はもっとはずかしかったです。
でも逆らえませんでした。ビニールでできた教科書用のカバーを買って、なんて。いえませんでした。

母親に、先生に事情をきかれたときは「ぬらしてしまった」と言うように、父親のことは言わないように言われました。
おそらく家庭の事情は一切学校関係者に伝えていなかったと思われます。

それから小学5年生のころまで、強烈な迫害が継続しました。


集会に連れて行ってやる、と言い出した父親が車に私、弟、母親をのせて車で出発しました。これも二年生のころだったと思います。
道中、いつもバスでいく道のりとどうも離れていきます。
私と弟はのんきにテレビCMの歌を歌っていました。はっきり覚えています。父親の車で集会に行くなんて。すごく嬉しかったのです。

ところが突然、母親と父親の口論がはじまりました。
車中に一瞬にして緊張が走りました。
「どうしてここを通るのッ!?おろしてッッ!!!」

母親は何を思ったか、助手席のドアをあけ、飛び降りようとしています。
私はおびえて泣くことすらできませんでした。
母親は後部座席を振り返り、


「あんたたちっ!一緒におりなさい!!集会に行けなくなるわよっ!!!」


といって飛び降りました・・・・・。


父親の運転はその瞬間ひるみ、速度を落としました。


��お母さんからはなれるとしぬかもしれない!!!こわいよう!!!!)
私と弟は泣くこともできないほど切羽詰り、もう、無我夢中で車から飛び降りました。


それから10分後くらいまでのことを覚えていませんが、母親が弟を抱え、私をつれ、集会場まで歩いて行ったのを覚えているため、全員大きなケガはなかったと思います。

なんか最近まで封印していたのですが、今思い出してもおそろしくて震えのくるような記憶です。

小学生の子供に走行中の車から飛び降りるようにって・・・・・
ひどすぎます。なんでこんなふうに私らを育てたんでしょう。20もすぎたような、父親なんか30すぎたような、健常で金にも困ってなくて、いい大人が・・・・



その後くらいからだと思いますが、週3回の集会が終わり自宅にもどると、

子供の好きなレコードはめちゃめちゃに割られ
子供のおもちゃはめちゃめちゃに壊され
母親と子供たちの服はビリビリに破かれ
一生懸命子供が書いた絵は破かれ
子供の写真は破かれ
母親の内職の道具は隠され、内職の商品は隠され
子供がかわいがっていたぬいぐるみは破かれ
次の日の朝ごはんの食材は生ゴミ入れに入れられ

子供の寝室にはビール瓶や皿やコップが粉々に砕かれたガラスがぎっしりとばら撒かれ
部屋の電気はペンチで切断され
ガスコンロは破壊され
炊飯ジャーは破壊され



毎集会後は小学生の私と弟と母親はまず部屋にばらまかれたガラス片を片付け、ろうそくの火をともし、かくしておいたパンを出して三人で分けて食べ、ろうそくの炎のあかりで宿題をし、小さな子供は23時ころにやっとさむざむしい家で、野獣と化した父親の足音におびえながら眠りについていました。

ガラス片の片付けの際、たまに小さなケガを負ったりしました。
母親は、「でも大きなケガをしたことないわねぇ。エホバがまもってくださってるのね」
などと言っていました。

ものすごくさむざむしい思い出です。いま振り返っても記憶がすべてうすぐらーい灰色なんですね。
電気がマトモにつかなかったんで、そういう記憶なんでしょう。
宿題は夕方の明るいうちに済ませる必要がありました。できなかったときはろうそくの明かりでした。


あと、我が家は一階が父親の領域、二回は子供と母親のスペースになっていきました。
フロや水周りは一階にあるので、子供のころは特に、お風呂やトイレが恐怖でした。
階段の上から二段目はすこしきしむので、子供なりに音をたてないやり方を習得していました。
トイレにいくとき、影や音を出さない動き方など、自然に身を守る方法として身についていました。

今でもきしむ場所などはリアルに思い出せます。恐ろしい記憶でしかないですが。


幼少期、一番怖かったのは、母親がPTAの役員などになり、会合などで出かけてしまうことでした。
つまり、家に私たち子供と父親だけが残されることを非常に怖がっていました。
母親は
「いつもエホバに祈りなさい。お父さんは人間なのよ。あなたたちの親なのよ。敬いなさい。怖がることないのよ。」
といつもいっていました。

でも、私たちだけが家に残されたときは、いつもやるんです、精神的暴力を。


おびえながら二階で息を潜めてすごしていると、あの、階段の上から二段目のきしむ音がきこえ、
心臓が破裂しそうなくらいドキリ!!!とします。

父親が足音をひそめて二階にあがってきたのです。

父親の顔を恐怖の表情でみつめる私と弟。
自分の娘と息子に、こんな鬼をみるような目つきで、おびえた表情で見上げられた父親気持ちってどんなのでしょう。


きっと深い深いやりきれなさ、虚しさ、腹の底からにえくりかえるような怒りがこみ上げることでしょう。


父親は必ず、私たちの目の前で、母親の聖書の隠し場所から探り当ててきた書籍や雑誌類、エホバの証人仲間と撮った写真などを破り始めます。
ものすごい力です。ハードカバーの本を目の前でひきちぎります。表紙を引き裂きます、素手で。

そして、子供の大事にしているオモチャをペンチをつかって破壊しはじめます。

弟は嗚咽から、ヒィッとおしころしたような鳴き声を搾り出します。つられて、私が恐怖の絶頂から震えとともに咽び泣きはじめます。


父親はいっそうキレるでしょう、母親の下着類をひきちぎりはじめます。


小学生の子供の前で、ひととおりを一言の言葉も発せず、凍りついた悪事を終え、野獣はゆっくりと階段を降りていきます。



私と弟は、恐怖に耐え切れず、二階から外への脱出をこころみました。
遊びで覚えた、二階から庭にある母親の内職用のプレハブ小屋の屋根をつたって外に出る方法です。
素足で、もっと小さなころ通った幼稚園に逃げました。

ブランコにのり、母親の帰宅を待ちます。この幼稚園でまっていれば、必ず目の前の道を母親が通るのです。
外は野獣の息が届かず、本当に開放的な空気でした。

小さな子供にとって、真っ暗な夜の中、外のほうが安全なのです。



母親が帰ってきました。
夢中で走り寄る私たち。
母親は

「なぜ家で待たないの!?そんなにお父さんがこわいの?お父さんは人間なのよ?人間より神を恐れなさい、祈りなさい。信仰が足らないから祈らない、お父さんに「やめて」という力をエホバにもらえないのよ!」



誇張などはしていません。
こんなのが5年生まで続きました。栄養は学校給食に頼りきりだったと思います。
母親は服をすべて破り捨てられるため、父親の着古し(つまり男の服)を着ていました。
私と弟はこんなわけでオモチャを持ったことがほとんどありませんでした。
普段着はほとんどなかったため、制服で過ごしました。
母の内職は父親が商品を隠したりミシンを壊したりするためマトモに続けられず、母方の親戚からの支援金や、父親がキレて投げつけてきた小銭などで生活していました。


父親は親戚の人間をおそれ、私たち子供の教材に手を出すことは、ランドセル事件以降しませんでした。おそらく母親が親戚にあのランドセルの件を訴えたと思われます。

当時は児童虐待といった概念、ニュースがまだあまりきかれない時代でした。スパルタ教育すらまかりとおっていたような世相だったので、このような状況も母親にとって、どこかに訴えるべきという認識にいたらなかったことなのでしょう。


家に入れてもらえずダンボールの中で寝た冬の夜、親子三人で1袋のパンのみですごした日など恐ろしくてさむざむしくて、信じられないような出来事ばかりでした。


そしてDVを生み出す家庭、そして過程、それにつけこみ弱者を取り入り、家庭崩壊の連鎖を生み出すエホバの証人。
社会的経験のない結婚がもたらす悲劇、付け入るカルト、苦しむ人々を酒の肴にする権力のある人間たち。


私は子供時代の経験を決して無駄にはしない。
そしてこのような状況を作り出した、許した、エホバの証人の組織を心から憎みます。



少女時代苦しかったこと(3)憂鬱な長時間の「野外宣教」 おやつ

子供のころからエホバの証人の「野外宣教」というものにまじめに取り組んでいた。
つまりは勧誘活動である。
よく皆さんのうちにも朝から、飯時から、二人連れで「ものみの塔」を持って訪問してくる、あれである。

日曜になると、我が家の隣の家の同年代の三兄弟、Sくん、Kくん、Mちゃんは両親に車でレジャーに連れられていっていた。
私はあれがうらやましくて仕方がなかった。
我が家にはレジャーなど一切といっていいほどなかった。

我が家は日曜、祝日となると、エホバの証人の「集会」か「野外宣教」である。
休みの日はほぼまる潰れだった。

祝日には「野外宣教」の特別版、「特別活動」がとりおこなわれる。
普段はなかなか行かない地域に出向いて勧誘活動をすることである。私のいた地域では山間部に出向くのが習慣になっていた。

我が家は父親がひどい反対者だったので、運転免許を持っていない母親は、私と弟をつれて、他のエホバの証人に頼み、他人の車に同乗して山間部へ出かけていた。

ある特別活動の日、母親は事情で参加できず、私と弟のみが他のエホバの証人に預けられて出かけた。
行きも帰りも2時間以上の道のりで、車の中ではエホバの証人の音楽カセットテープ「王国のしらべ」もしくは日曜日の集会での「公開講演」録音テープがかけられている。

これから山間部へつけば、一軒一軒一般の知らない人々の家をまわり、「うちは宗教なんていいです」「帰ってください」「あー、もういい、いい!」と断られ続けることにびくびくすることになる。
隣の家のMちゃんたちは今頃、海だか遊園地だか行って、楽しんでるんだろうなあ。
私はよそのエホバの証人の大人に監視されながら、これからいやいや営業活動してまわらなきゃならない。帰ったら宿題だ。
ああ、めんどくさ。はやく終わらないかな。いやだなー・・・・。

こんな思いで車の後部座席にいた。
かばんの中には3、4部ずつ持たされた「ものみの塔」「目ざめよ!」誌と、

おやつに、と持たされた不二家のミルキーが一袋入っていた。

私は重々しさに耐え切れず、後部座席で車窓をながめながら、ミルキーを一つ一つゆっくり食べて自分をはげました。ミルクのやさしい風味と濃い甘みが子供の私にはたまらないひまつぶしだった。おいしくて、苦痛がやわらいだものだった。


後日の集会のときである。
私を車に乗せてくれたN姉妹(エホバの証人の間では、バプテスマという献身の儀式をした者を、女性は「姉妹」男性は「兄弟」を名前につけて呼ぶのである)が、うちの母親と話していた。
うちの母親が「こないだは子供たちを乗せていただいてありがとう」というと、N姉妹は

「いーえー、いつでもどうぞ。
しかし、まー、○○(私の名前)ちゃんは、車のなかでずーっと、こーっそりこーっそりミルキー食べてんのよ。」
、と、ひょうきんで知られている普段の調子のままで、大きな声で言い放った。
おもしろおかしく言おうとしたらしい。

母親は「あらまー。しつれいしましたー」
などと笑っていたが、私は例によって・・・
ひどく傷ついた。
●●姉妹は車のミラーで様子をうかがっていたのである。
そんなにだらしない、よくない態度なのであれば、そのとき言ってくれればよかったのに。


別に腹がへってしかたなかったわけではないが、くいしんぼうみたいに言われてなんか違う。
くいしんぼう扱いされた恥ずかしさと、自分なりに色々な不満をあのキャンディでうまく相殺して乗り越えたつもりだったのに、バックミラーでちゃんとみてたのよみたいにバカにされた気分で、目がショボショボした。
涙は出ないんだが、ものすごい羞恥心と見透かされた怖さで。