脱会できない二世が甘えていると言われる

二世として暮らしていると、学校や職場などで、

大変ね、つらくないの

というようなことを言われた。

正直しんどい、制限が多くてつらい

というようなことを漏らすと、決まって

なんでバイトして家出ないの?
親に黙ってバイトすればいいじゃん
お父さんに頼んで、大学行かせてもらえば?
20歳すぎてるんだから、勝手に就職すればいいのに
20歳すぎてるんだから、自立すれば?
20歳すぎてるんだから、自分で決めて好きなところにいけば?
20歳すぎてるのに、なんで家出ないの?

という反応が返ってくる。


甘えだ、自立するのが怖いんだぁ、親に養ってもらってラクしたいんだぁ、
と誤解されるのはしょうがないだろう。
たぶん洗脳というやつは、経験した人でないと絶対に理解できないと思う。


現に私は、洗脳に気付き、自分の人権を侵害されているのに気付いてからは、遠く実家を離れる計画をし、すぐに実行に移し、社会や会社のしくみを一から恥ずかしい思いを毎日しながら自らに叩き込み、正規雇用の立場をついに得た。

本当に甘えていて、自立が怖かったのなら、成人後もそのような生活を送っていたのを痛みをともなうのがわかっていてやめるはずがない。
私は身をもってそれを証明した。


甘えていたから家を出られなかったのではなく、そう出来なかっただけだ。
チャンスはもちろんなく、それよりなにより、それを実行する手がなかったし、知識を得る方法を完全に断たれていたからだ。



塾に行くこと(進学に縁を与えない)
友達と買い物に行くこと(社会性を身につけさせない)
収入を得ること(独り立ちさせない)
雑誌、漫画、テレビ、映画、ゲームの禁止(余計な知識を身につけさせない 憧れ、目標、野望や欲求を抱かせない)
音楽、服装を監視する(流行に乗らせない 男女の縁を与えない あえて一般の人から差別されるように仕向ける)



子供のころ、楽しみにしていた学校行事が近付くと、エホバの証人である母親の機嫌が突然悪くなり、原因がわからず苦しんだ。
時間がたった今はわかる。
学校行事が近付いて、子供が社会とべったり交流する機会を得てしまうからだ。
自分の手を離れ、余計な知恵をつけてしまうことに恐怖を感じていたからだ。

とくにひどかったのが修学旅行の前だった。
つまらないことで

”反逆した!”

とキレはじめ、とうとう

”明日は(修学旅行など)行かなくていいからねやめなさいお金出さないから”

とまくしたてて脅す。
お小遣いなど一銭も与えられなかった私は、修学旅行をただ取り上げられ、なすすべもない。
目の前でスポンサーがキレている。ああ、終わったな。

そのほか、母親の機嫌をそこねてしまうと、"聖書の出版物"を開いて夜中の1時2時まで延々といびりが続いた。
私は次の日起きられず遅刻するのが怖かった。テストに影響が出るのが恐ろしかった。

食事も禁止された。その他、衣食住にかかわる一切のことを母親は放棄した。

普段は私ら親子三人を虐待する父親の食事はきちんと作ってならべる。
それを見せつけ、普段はいがみあうだけの夫婦のくせに気持ち悪いくらい仲良くしながら、

”悔い改めるまでは、一切あんたの世話はしない”



こういう出来事は月に何度も発生した。
学生時代は小遣いなどなかったため、自前で食事やその他生活費を工面できない。
冷蔵庫内のものは

”あんたたちの物ではない さわるな”

である。



じゃあアルバイトして稼いでおけ??
出来たらとっくにしたわ。

帰宅時間の理由や、買ってきたもの、誰とどこで何をしていたかをきっちり管理されているのだ。
ばれずに行動できる時間や場所などない。

じゃあ反抗してでもなんとかしろ?
出来たらとっくにやったわ。

怒り狂うとどこでも追ってくる人である。他人が見ていようと、家族が恥をかこうと。
反抗することは、周囲にとんでもない恥をかき、逆に自分たちの世界を狭めてしまうのだ。
アルバイト先も、おそらく大概のところはその状況を見れば即解雇するだろう。


誰かのところに転がりこめ?
一体誰のところに??誰が親のある他人の子を養ってくれるのですか?
それと、一銭も金がないのにどうやってそこまで行くんですか?誰が恵んでくれるんですか?助けてくれる人をどういう手段で探し当てるんですか?



卑怯な手段だ。
世との交わりをもたせない、を理由に社会に出る手段を禁止する。
衣食住、そして生活を盾にとり、服従を要求する。卑怯なことこの上ない。



私が社会とリアルな接点を持てたのは、インターネットとの出会いがきっかけだった。

就職の仕方、
ハローワークのこと、
まともに全時間働けば、20万円くらい収入を得られること、
水道・光熱費がどのくらいかかるか、
食費は一人どのくらいが適当なのか、

雇用保険のこと、
銀行の使い方、
役所の手続きの仕方、

ネット上で顔もしらないような遠くの人と交信できること、
ネット上に求人がのっていること、

ネット上で賃貸物件が探せること、
4万円もあれば、安全できれいな部屋に住めること、

夜行バスに乗れば安く移動ができること、
素泊まりで5000円の、安全できれいなホテルがあること、



ここから私の人生がスタートした。
私はこんなこと全部できる。と思った。



私はひとりで絵を描いたり、好きな男と遊んだり、休日には家にこもって大音響で好きなロックをかけておいしいものを食べたい。
自分の収入を好きに使って生活を成り立たせたい。

と思った。


思ってから1年で、開拓奉仕のかたわら月数万円のパートの収入をため、就職・引っ越し費用を作った。
職業訓練校の制度を使い、補助金をもらいながら東京で生活する手配をした。
訓練校の該当コースの試験も突破した。


コースの入学日が確定したところで、同時に就職活動をはじめた。
一社目で内定を取った。
訓練校はこの時点で不要となったため、辞退届をした。


初出社までの5日間で引っ越しをするよう指示され、マンションの内見・契約と、役所関係、銀行、インフラすべての手続きを5日ですませた。
引っ越し費用と物品購入で、ちょうど貯金は手元に生活費を残して消えた。

派遣での仕事を数年経験したあと企業に正社員として入社。



私は自分がビビッてはいなかったことを証明した。








母親の問題

以前書いた記事の引用です。


幼少期、一番怖かったのは、母親がPTAの役員などになり、会合などで出かけてしまうことでした。
つまり、家に私たち子供と父親だけが残されることを非常に怖がっていました。
母親は
「いつもエホバに祈りなさい。お父さんは人間なのよ。あなたたちの親なのよ。敬いなさい。怖がることないのよ。」
といつもいっていました。




私はこれは、少し教育熱心な母親のよくある姿だと思っており、今まで異常とは思っていませんでした。
私はむしろ、このあと発生した、父親の暴力のほうに完全に注意を奪われていたのですが…

これにはもっと重大な問題が隠れていたんですね。


母親に日常的に暴力を振るい、子供とは親子関係が完全に破綻している夫がいるところに、
小学低学年の子供ふたりを置き去りにして出かける、
このこと自体が異常だったんですね・・・。


子供の年齢に不釣合いな行動を期待し、(上記の件でいうと、父親の暴力行為を見ても逃げずに毅然とする、ということ)
子供がそれをやり遂げることで自らの何かを満たすということで、間接的に支配していたんですよね。

最近の傾向はどうだかは知りませんが、私の幼年期、「バプテスマ」(意味・詳細は別途お調べください)を
小学生の頃受けた子供やその親は模範的ともてはやされていました。

祈っても何かの方法で助けてくれるわけではない神、矛盾した理屈※1で人間界の苦しみや悪事を放置している神、
そんな神様に対し無条件の服従を誓う行為を、年齢が二桁にとどかない子供に要求するのです。

※1 エホバ神は絶対の存在で、この世のすべてのものより強く、不可能はない。
だが、そのエホバの創造した完全な人間アダムとエバは罪を犯した。このこと自体、神が創った創造物は不完全だったということになるのではないか。

更に、神は不完全になった人間を修正するのではなく、サタンと人間と神の間に論争を置き、一定の期間人間を放置し、不完全な人間の中にも神に絶対服従を成し遂げる者が必ず存在してくるはずなので、つまりエホバ神がやはりこの世で唯一正しいのである、という教義。
またそれを証明するためにやむを得ず、人間界の悪や苦しみが一時放任されているという理屈。
不可能はないはずの神が、不完全なものにわざわざそれを証明してもらわねばならないのか。
万能の神が自ら愛するという、自らが造った欠陥のある人間に、苦しみを強要せずとも他のすべてが丸く解決する方法をとらないのはなぜなのか。
その方法が一番よい選択だったのであれば、つまり人間が苦しまなくてよくすることが「不可能」だったということなのではないか。



大人ですら理解に時間の必要な、サタンと人間と神をめぐる裁判・証明の期間というものを
理解した、と名言させ表明させるバプテスマ。


年齢につりあわないことを強要し、なぜと疑問を抱くこと自体が不信仰と決め付け
成長をにぎりつぶして子供の精神を殺していく教育。

いつだったかエホバの証人の雑誌だったか本だったかに書かれていましたよね、
長時間にぎりつぶしたバネのように、子供をしてしまわないように、との説教。


それをやっているのは、あなたたち教団と、無意識に子供を妬みとフラストレーションの
捌け口にしている、あなたたち母親の皆さんです。










社会的にわざわざ落ちぶれる人たち

エホバの証人という人々は、わざわざ、自ら社会的な立場を落とす人たちである。
高学歴排除(今は規制がゆるくなっているらしいですね)、女や家長以外は非正規雇用を選択する、などだ。
理由はいわずもがな、そのほうが洗脳に導きやすいからだろう。詰まるところはそういうわけだ。

私もこの規制の影響を受けた一人だ。
若い頃の訓練がないために、ヒエラルキーの上位を狙うチャンスなどなかった。
今もヒィヒィいいながら日々の生活だけで精一杯だ。

下記のような人々の中には、エホ証もたくさん含まれるだろう。
資本主義の社会に、いいように使われてるだけですよ。わかってるんですかねみんな?
「開拓奉仕のために」とかなんとか、一般社会から見ればクソみたいなプライドをもってがんばってるんでしょうがね。

YOMIURI ONLINE 9/30 「契約・パートの4割、正社員と同水準の仕事」
http://www.yomiuri.co.jp/national/news/20090930-OYT1T00494.htm?from=main2

このブログ内容について

このブログはエホバの証人2世として育ち、長期間をその宗教にささげることになった、自分の記録です。
記録方法ですが、
その時どんな感情になったか、を詳細に記すことで記録しています。

その体験をしてその人がそのような気持ちになることに、「それは違う」もクソもありません。
実際に私がその時そう感じたことに相違ありません。記憶しているので間違いありません。

どう感じたのかを詳細に記すことで、宗教に支配される人々がどんな目に遭うかを、これを見る人にしらしめるつもりです。

その時その体験をしそう感じた人に、その感じ方は間違っているというつまり事実を否定することは、お互い気の知れた「なあなあコミュニティ」の中ででもやってればよいと思います。

私は自分から自由を奪い、取り返しのつかない若い時代を奪った宗教に断固戦いを挑んでいます。
それに”なあなあ”は無用です。

私は私から貴重な自由を奪った人々が降参するまで(≠それはおそらく私の死ぬ日まででしょう)戦います。


父親からの迫害時代

私はエホバの証人時代の苦しみと、現在の「後遺症」を戦略的、計画的に克服すべく、しばらく前から自分がなぜこのような人生を歩むことになったのか、分析をはじめました。
まずはなぜ私の母親がエホバの証人になったのかを紐解きました。
そして幼年期の断片的な記憶をここに残します。


エホバの証人時代うちは特に、ひどい部類の「迫害」(家族など身近な人から、信心を棄てさせようとひどい扱い、圧力を受けること)を受けていました。
未信者であった父からです。しかし父親の暴力は、母親がエホバの証人になる前からあったのです。



私の両親の結婚当時、父は20代後半、母親は20歳になりたてでした。
父親は甘やかされて育った人で、母親と結婚後すぐにDVがはじまったような、元々暴力的な性向の人でした。

母親のほうといえば、私はこの母方の祖父母に非常にかわいがられましたのでよく知っていますが、この祖父母に非常にきびしく(しかし常識的に)育てられた人です。
訊いたことはありませんが、おそらく父親が男性として付き合った初めての人だと思います。
母親がいつか私にぽろっと言ったのですが、「結婚するまで、暴力をふるう人だというのをまったく、ぜんっぜん気づかなかったの。」だそうです。
母親は社会経験も非常に乏しいまま、因習の強い家に嫁ぎ、DV属性の恐ろしい夫に仕えることになりました。

母親は結婚には若すぎたのです。これは自らも言っていました。若すぎたのよ、と。
社会経験は乏しいが、若さだけがつっぱしり、一生懸命すぎたのです。
とついで来た家で、よくあるドラマそのまんまの、親戚からのいじめがはじまりました。
いじめの原因は、父親の気まぐれです。
��V属性の男の特徴は別サイトで詳しく調べていただくとして、その傾向まんまの男でした。
メシが気に入らない、メシのタイミングが悪い、他にも空が曇ってきたのにフトンを屋根にほしっぱなしだっただろう?というような、自分の目で確かめたわけではないことをあることないことデッチアゲては暴力のネタにしていたようです。

私の3歳頃の記憶だと思われますが、コタツ机をはさんで向こう側とこっち側で両親が私のオモチャや、そのへんにあるモノをお互いなげつけあって、私と弟がなきわめくのもかまわず戦争をくりひろげていました。

親戚の婆さんが昼間に突然訪れては、若い嫁に茶を出させ、偉そうにネチネチと説教やイヤミをのべ、かえって行きます。
そして父親にあることないことをチクっては暴力のネタを追加していました。
��いまさら私が擁護するのもナンですが、母親ほど家事を完璧にこなす人間はいません。これほどまでイジメのネタがほしくてたまらない野獣一家に嫁いできたのです)

とついで来たくせにメシを食らうだけなのか、働け!という父親に従い、母親は近所会社勤め始めました。
しかし、仕事をはじめて数日後、あることないことを吹き込まれて逆上した父親が自ら、会社に母親を迎えに行き、
「今すぐ辞めて帰宅しろ」
と連れ帰ったそうです。
その後はDV経験者なら想像がつくでしょう、
「タダメシ食らいめ」
「働きもしないで親戚や近所中の笑いのタネになりやがって」
という、典型的な嫁いびりの地獄が繰り広げられたのでした。幼少の私の記憶にもこれらの出来事のパーツが残っているのです。



この頃かと思われますが、母親は聖書研究をはじめました。私が3、4歳のころです。
社会経験も人生経験も乏しく、幼い子供を2人かかえ、おそろしい親戚の野獣どもにおびえた若い母親はワラにもすがる思いだったのでしょう。
昼間たずねてきたエホバの証人の、弱者をとりこむあの”証言”にまんまとかかったのでした。
学生時代から読書好きだった母親は、すでに聖書に関する解説書などを何冊も所持していて、親しみがあったものと思われます。

そして私が小学校にあがるころには本格的にエホバの証人の集会に出席しはじめ、伝道(エホバの証人の布教活動)にも参加するようになりました。
それから1年たたないうちに、父親から迫害が始まりました。
ここからは私の記憶にも強烈に色々と残っています。



小学2年生の時でした。朝学校に行こうとするとランドセルがありません。
前日の夜、宿題を済ませたノート、時間割どおりの教科書、連絡帳、絵の大好きだった私が必ず持ち歩いていた自由帳、小学生の女の子なら誰もが大事にするペンケースと大好きな鉛筆や消しゴムがすべてつめられていたランドセルです。

寝る前にいつもの場所にきちんと準備していたのに、どこを探してもないのです。
探すうちに時間はながれ、登校班の出発時間には間に合わず、私は遅刻することにおびえて泣き出してしまいました。(当時の学校教育は厳しいもので、遅刻や欠席、忘れ物はものすごい恥ずかしい思いをさせられたものです)

昼近かったでしょうか、あるわけないと思いながらも母親は捜索範囲をひろげ、フロ場のドアを開きます。


・・・真っ赤なランドセルが湯船に浮いていました。
中身の教科書は水分を含んでヨレヨレでした。鉛筆などは一日乾かさねば使えない状態だったでしょう。
ノート類は買いなおさねばならなかったでしょう。

2年生の残りの月日は、ヨレヨレの教科書をそのまま使い続けました。
私が恥ずかしいからなんとかしてほしいというと、母親はスーパーの包装紙を使ったブックカバーをつくり、教科書にかけてくれました。
でもスーパーの包装紙なんかかかった教科書はもっとはずかしかったです。
でも逆らえませんでした。ビニールでできた教科書用のカバーを買って、なんて。いえませんでした。

母親に、先生に事情をきかれたときは「ぬらしてしまった」と言うように、父親のことは言わないように言われました。
おそらく家庭の事情は一切学校関係者に伝えていなかったと思われます。

それから小学5年生のころまで、強烈な迫害が継続しました。


集会に連れて行ってやる、と言い出した父親が車に私、弟、母親をのせて車で出発しました。これも二年生のころだったと思います。
道中、いつもバスでいく道のりとどうも離れていきます。
私と弟はのんきにテレビCMの歌を歌っていました。はっきり覚えています。父親の車で集会に行くなんて。すごく嬉しかったのです。

ところが突然、母親と父親の口論がはじまりました。
車中に一瞬にして緊張が走りました。
「どうしてここを通るのッ!?おろしてッッ!!!」

母親は何を思ったか、助手席のドアをあけ、飛び降りようとしています。
私はおびえて泣くことすらできませんでした。
母親は後部座席を振り返り、


「あんたたちっ!一緒におりなさい!!集会に行けなくなるわよっ!!!」


といって飛び降りました・・・・・。


父親の運転はその瞬間ひるみ、速度を落としました。


��お母さんからはなれるとしぬかもしれない!!!こわいよう!!!!)
私と弟は泣くこともできないほど切羽詰り、もう、無我夢中で車から飛び降りました。


それから10分後くらいまでのことを覚えていませんが、母親が弟を抱え、私をつれ、集会場まで歩いて行ったのを覚えているため、全員大きなケガはなかったと思います。

なんか最近まで封印していたのですが、今思い出してもおそろしくて震えのくるような記憶です。

小学生の子供に走行中の車から飛び降りるようにって・・・・・
ひどすぎます。なんでこんなふうに私らを育てたんでしょう。20もすぎたような、父親なんか30すぎたような、健常で金にも困ってなくて、いい大人が・・・・



その後くらいからだと思いますが、週3回の集会が終わり自宅にもどると、

子供の好きなレコードはめちゃめちゃに割られ
子供のおもちゃはめちゃめちゃに壊され
母親と子供たちの服はビリビリに破かれ
一生懸命子供が書いた絵は破かれ
子供の写真は破かれ
母親の内職の道具は隠され、内職の商品は隠され
子供がかわいがっていたぬいぐるみは破かれ
次の日の朝ごはんの食材は生ゴミ入れに入れられ

子供の寝室にはビール瓶や皿やコップが粉々に砕かれたガラスがぎっしりとばら撒かれ
部屋の電気はペンチで切断され
ガスコンロは破壊され
炊飯ジャーは破壊され



毎集会後は小学生の私と弟と母親はまず部屋にばらまかれたガラス片を片付け、ろうそくの火をともし、かくしておいたパンを出して三人で分けて食べ、ろうそくの炎のあかりで宿題をし、小さな子供は23時ころにやっとさむざむしい家で、野獣と化した父親の足音におびえながら眠りについていました。

ガラス片の片付けの際、たまに小さなケガを負ったりしました。
母親は、「でも大きなケガをしたことないわねぇ。エホバがまもってくださってるのね」
などと言っていました。

ものすごくさむざむしい思い出です。いま振り返っても記憶がすべてうすぐらーい灰色なんですね。
電気がマトモにつかなかったんで、そういう記憶なんでしょう。
宿題は夕方の明るいうちに済ませる必要がありました。できなかったときはろうそくの明かりでした。


あと、我が家は一階が父親の領域、二回は子供と母親のスペースになっていきました。
フロや水周りは一階にあるので、子供のころは特に、お風呂やトイレが恐怖でした。
階段の上から二段目はすこしきしむので、子供なりに音をたてないやり方を習得していました。
トイレにいくとき、影や音を出さない動き方など、自然に身を守る方法として身についていました。

今でもきしむ場所などはリアルに思い出せます。恐ろしい記憶でしかないですが。


幼少期、一番怖かったのは、母親がPTAの役員などになり、会合などで出かけてしまうことでした。
つまり、家に私たち子供と父親だけが残されることを非常に怖がっていました。
母親は
「いつもエホバに祈りなさい。お父さんは人間なのよ。あなたたちの親なのよ。敬いなさい。怖がることないのよ。」
といつもいっていました。

でも、私たちだけが家に残されたときは、いつもやるんです、精神的暴力を。


おびえながら二階で息を潜めてすごしていると、あの、階段の上から二段目のきしむ音がきこえ、
心臓が破裂しそうなくらいドキリ!!!とします。

父親が足音をひそめて二階にあがってきたのです。

父親の顔を恐怖の表情でみつめる私と弟。
自分の娘と息子に、こんな鬼をみるような目つきで、おびえた表情で見上げられた父親気持ちってどんなのでしょう。


きっと深い深いやりきれなさ、虚しさ、腹の底からにえくりかえるような怒りがこみ上げることでしょう。


父親は必ず、私たちの目の前で、母親の聖書の隠し場所から探り当ててきた書籍や雑誌類、エホバの証人仲間と撮った写真などを破り始めます。
ものすごい力です。ハードカバーの本を目の前でひきちぎります。表紙を引き裂きます、素手で。

そして、子供の大事にしているオモチャをペンチをつかって破壊しはじめます。

弟は嗚咽から、ヒィッとおしころしたような鳴き声を搾り出します。つられて、私が恐怖の絶頂から震えとともに咽び泣きはじめます。


父親はいっそうキレるでしょう、母親の下着類をひきちぎりはじめます。


小学生の子供の前で、ひととおりを一言の言葉も発せず、凍りついた悪事を終え、野獣はゆっくりと階段を降りていきます。



私と弟は、恐怖に耐え切れず、二階から外への脱出をこころみました。
遊びで覚えた、二階から庭にある母親の内職用のプレハブ小屋の屋根をつたって外に出る方法です。
素足で、もっと小さなころ通った幼稚園に逃げました。

ブランコにのり、母親の帰宅を待ちます。この幼稚園でまっていれば、必ず目の前の道を母親が通るのです。
外は野獣の息が届かず、本当に開放的な空気でした。

小さな子供にとって、真っ暗な夜の中、外のほうが安全なのです。



母親が帰ってきました。
夢中で走り寄る私たち。
母親は

「なぜ家で待たないの!?そんなにお父さんがこわいの?お父さんは人間なのよ?人間より神を恐れなさい、祈りなさい。信仰が足らないから祈らない、お父さんに「やめて」という力をエホバにもらえないのよ!」



誇張などはしていません。
こんなのが5年生まで続きました。栄養は学校給食に頼りきりだったと思います。
母親は服をすべて破り捨てられるため、父親の着古し(つまり男の服)を着ていました。
私と弟はこんなわけでオモチャを持ったことがほとんどありませんでした。
普段着はほとんどなかったため、制服で過ごしました。
母の内職は父親が商品を隠したりミシンを壊したりするためマトモに続けられず、母方の親戚からの支援金や、父親がキレて投げつけてきた小銭などで生活していました。


父親は親戚の人間をおそれ、私たち子供の教材に手を出すことは、ランドセル事件以降しませんでした。おそらく母親が親戚にあのランドセルの件を訴えたと思われます。

当時は児童虐待といった概念、ニュースがまだあまりきかれない時代でした。スパルタ教育すらまかりとおっていたような世相だったので、このような状況も母親にとって、どこかに訴えるべきという認識にいたらなかったことなのでしょう。


家に入れてもらえずダンボールの中で寝た冬の夜、親子三人で1袋のパンのみですごした日など恐ろしくてさむざむしくて、信じられないような出来事ばかりでした。


そしてDVを生み出す家庭、そして過程、それにつけこみ弱者を取り入り、家庭崩壊の連鎖を生み出すエホバの証人。
社会的経験のない結婚がもたらす悲劇、付け入るカルト、苦しむ人々を酒の肴にする権力のある人間たち。


私は子供時代の経験を決して無駄にはしない。
そしてこのような状況を作り出した、許した、エホバの証人の組織を心から憎みます。



身分の高いエホ証(笑)

エホバの証人をやっていると、人によって待遇が違うと感じることが多々あった。
でも現役のころは素直だったので、「その人その人で異なる状況があって、配慮とか情状酌量とかあるんだろう」と思っていた。

でもそんなことはなかった、ただ騙され、いいようにつかわれていただけなのだと脱退後に気づいた。


一番不愉快な思い出をここに残す。
エホバの証人では未信者と結婚してはならない、付き合うこともだめ、という鉄のおきてがある。
そんなことが発覚しようものなら助言、特権剥奪、排斥というような処分が即刻下される。

・・・はずなのだが、適用されない奴らがいるのだ。
それは私の表現で言うとエホ証の中で「身分の高い」人らである。

ある年の「記念式」の日だった。(記念式とは主イエスキリストが人類のあがないとなり、処刑された日を記念する非常に厳粛な雰囲気で催される式典である)

集会に久しく顔を出していなかったA姉妹の娘が、母親と一緒に出席したのだ。
その腕には生まれたばかりの乳児が抱かれていた。

未信者と恋愛関係に落ち、結婚し、出産した子供である。

娘もA姉妹もこれ以上ないくらい喜びにあふれた笑顔であちこちに愛想振りまき、赤ん坊をみせびらかしている。

周りの信者たちは
「よくいらっしゃいました。赤ちゃん生まれたんですか、おめでとうございます!」
「○○姉妹(娘の名前)、ひさしぶり~!赤ちゃんかわいいー!!」
「このあたりは席の出入りがラクでしょう。ここにどうぞ」
ともてなし放題である。


なにこれ。
ほんま、真面目にすべての欲望をなげうってコツコツと、貧乏生活にも不満のひとつももらさず頑張っている私らに、何がいいたいのん、貴様ら親子は?
主の記念式に出席しにきたあ?
ちげえだろう、赤ん坊を自慢しにきただけだろうが。

下々の私たちは、禁止とされているオイシイことをぬけぬけとしてのける貴様らを、指をくわえて眺めてろってか。
ただでさえ色々な恥、家族から阻害される恐怖、学校の人間関係から阻害される恐怖、そして人生で誰もが味わうはずの特権をとりあげられ、想像を絶する辛抱をしている、年頃の多感な若者たちの前で、貴様ら「開拓者様」は何をやっとんのか。


このような例を筆頭に、エホ証の中にもいやらしいヒエラルキーが根を張っていて、あの閉ざされたコミュニティのなかで一層の人間関係のストレスを生じさせていた。


どんな人が見えない権力を得てふんぞりかえっているのか。

さきほどの親子の例だと、母親は会衆内でも古い開拓者で、女性の中では幅をきかせ、3人の指に入るくらいの強さを誇っていた人だ。
口が達者で、エホ証内のスキャンダルは絶対に見逃さない人である。
バプテスマを受けた若い子について、「あの子ははじめの数回、水に浸かりきらなかったらしい」などという、非常にデリケートなうわさをどんどん広める下品なオバサンだ。
��バプテスマとは、キリスト教徒が”神にこの身をささげます”つまり生涯を神のためにささげますということをあらわすための儀式で、厳格な審査(おそらく身辺調査含む)や教育を経て受けられる一生ものの行為)

家は地元でも古くからの家柄らしく、大きく裕福な家で何不自由なく暮らしている一家である。
娘は「開拓者になるため」に短大で専門分野を学んで卒業したが、在学中に得た自由と、なに不自由なく手に入るお小遣いででチャラチャラと着飾っていた。
女どもは働かなくても車を一人一台所有し、開拓奉仕し放題な家である。


エホ証というコミュニティは、精神面で弱さを抱えた人や、経済的社会的にめぐまれないような人が集まっている集団だから、口がうまくてうわさを撒き散らし、口だけで人々の流れを変えるような人がとにかく強くて様々な場面で勝利(のつもり)していたような気がする。

そしてもうひとつは間違いなく、お金持ち。金を持っている人には皆へりくだっていた気がするな。

しょぼい身の上抱えた人たちだから、ぱっと華やかに見える人のまわりにはチヤホヤな空気がいつも流れていた。
幼い私はいつも「私らはこの華やかな人たちが華やかでいられるようにするための、比較対象のための雑魚」みたいなことを考えていた。


金を持っていたエホ証はなんであんなに持ち上げられていたのだろう。
集会場が老朽化したから改修します、なんてときに匿名でウン十万円もポンと寄付するからか。
なんなのだろう。
まあそれは、一般の人間社会でも同じか。


つまりは、エホ証もただの卑しい”この世の”人たちじゃあないですか。



過眠症 絶望から逃げる行動

高校生の頃から私は過眠症をわずらっている(わずらう、というほど大げさな言い方はふさわしくないと思うが)。

眠るべきでないときに眠気が襲ってきたときはつらくてたまらない。
去年の前半はそれがかなりひどく、検査入院までした。
診断結果の際、確かに「過眠症」の症状だが、病的なものを原因としないため対策法が難しく、はっきり申し上げて打つ手がない、といわれた。
欝だの、精神面での健康問題が認知されるようになった昨今、こういう人は多いそうである。

私のばあいは高校生のときからであるが、どういうときに「過眠」とたたかっていたかって、エホバの証人の集会にきまっている。
はじめの祈りが終わり、あのもったりとした、シンとした、なにかに押し潰されたような時間がはじまる。
10分とたたないうちに、いくら十分睡眠をとっていた日であっても眠気はおそってきた。

席が前のほうだとほんとうにしんどかった。後の席の目を気にするからである。
また母親はヒス気味なので、少し頭がコクンとするとこづいてくる。機嫌の悪い日はまわりに聞こえるように注意する。

どんなにはずかしい目にあっても、私の居眠りは、集会への出席をやめる27才まで治らなかった。


私は20代のなかばにさしかかった頃、これが単なる怠惰の眠気でないことに気づいていた。
あまりにも病的な眠気のおそいかたに、なんとなく恐怖していた。

これは自分の身体の、逃避行動にちがいないと思っていた。


集会中、ハッと目がさめることがある。
それは「ものみの塔研究」などの最中、自分たち若者への「禁止事項」が増える瞬間である。

※「ものみの塔」…エホバの証人の月刊宗教紙みたいなものです。「目ざめよ!」とセットになっていました。

「オルタナティブ ミュージックはふさわしくありません。」
「インターネットの用い方に注意していますか?」
「学校の友達から○○に誘われたら、ふさわしい行動をとれますか?」
「携帯電話を持つことはふさわしいでしょうか?」
「異性が(どうのこうの、ハイ、全部禁止)以下略」


ハッと目が冴える。
また増えたか。
なんかの罪状を言い渡されたような気分になる。

しかし、ほぼ20年間こんな集会に通って通って通い続け、あまりに刺激がなくなっていた頃である。

そうした通告を耳にするのが、いやなんだけれども、なんだか快感のような、
妙な感覚だった。

あのお堅い「ものみの塔」に”オルタナティブミュージック”だの”インターネット”だの
現代的な単語が並ぶことに違和感があった。
新しい号が出ると、今回はなにを禁止にされたのか、一番に探すのがある意味楽しみ(快感)になっていた。

開いて1、2秒で禁止事項のキーワードを発見できるようになっていた。


こんなふうに鬱屈した、ねじまがった、抑圧された若者時代、あんな週に三回、二時間もある説教集会のなにに希望があろう。
今の自分から思えば、幼年時代、少年時代、あの状況で身体がなんらかの拒絶反応をしめさないわけがないと思う。


後遺症は現在も続く。
仕事がひまになったとき、あの眠気がおそう。
��ひまで遊んでいるように見られてしまうのがたまらなく怖い)
マイナスイメージは絶対危険な立場であるにもかかわらず。
脳内にある種の絶望がみなぎってくると、あの眠気がおそう。


いつか、集会と伝道活動にささげた時間を計算したことがある。
卒倒するような時間だった。

あれだけの時間があれば、この世の幸せな普通の子供たちはどんな遊びに費やすのだろう。
どんなスキルをあげるだろう。
洋服をえらぶのも、じょうずになるだろう。
人との付き合い方も、たくさんまなべるだろう。


あの無駄な睡眠で、いったい私はなにを得たのだろう。

いや、
失ったのだろう。