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JW思い出供養⑬自転車で、「思い出ぼろぼろ」

つらかった、王国会館への自転車通いの、13年間の思い出をここで成仏させる。
"5miles to Kingdom hall on the Bike for 13 years"













JW思い出供養①走行中の車から飛び降りるエホバの証人

私が小1の頃の強烈に記憶に残っている話です。
私の母親にとってエホバ、集会は子どもの命より大切だった。

というか正確に言うと「必要なものはすべて与えられる」理論で、正しいことをすれば怪我はしない!死なない!みたいな盲目スタイルの信仰なのですね。





父親からの迫害時代

私はエホバの証人時代の苦しみと、現在の「後遺症」を戦略的、計画的に克服すべく、しばらく前から自分がなぜこのような人生を歩むことになったのか、分析をはじめました。
まずはなぜ私の母親がエホバの証人になったのかを紐解きました。
そして幼年期の断片的な記憶をここに残します。


エホバの証人時代うちは特に、ひどい部類の「迫害」(家族など身近な人から、信心を棄てさせようとひどい扱い、圧力を受けること)を受けていました。
未信者であった父からです。しかし父親の暴力は、母親がエホバの証人になる前からあったのです。



私の両親の結婚当時、父は20代後半、母親は20歳になりたてでした。
父親は甘やかされて育った人で、母親と結婚後すぐにDVがはじまったような、元々暴力的な性向の人でした。

母親のほうといえば、私はこの母方の祖父母に非常にかわいがられましたのでよく知っていますが、この祖父母に非常にきびしく(しかし常識的に)育てられた人です。
訊いたことはありませんが、おそらく父親が男性として付き合った初めての人だと思います。
母親がいつか私にぽろっと言ったのですが、「結婚するまで、暴力をふるう人だというのをまったく、ぜんっぜん気づかなかったの。」だそうです。
母親は社会経験も非常に乏しいまま、因習の強い家に嫁ぎ、DV属性の恐ろしい夫に仕えることになりました。

母親は結婚には若すぎたのです。これは自らも言っていました。若すぎたのよ、と。
社会経験は乏しいが、若さだけがつっぱしり、一生懸命すぎたのです。
とついで来た家で、よくあるドラマそのまんまの、親戚からのいじめがはじまりました。
いじめの原因は、父親の気まぐれです。
��V属性の男の特徴は別サイトで詳しく調べていただくとして、その傾向まんまの男でした。
メシが気に入らない、メシのタイミングが悪い、他にも空が曇ってきたのにフトンを屋根にほしっぱなしだっただろう?というような、自分の目で確かめたわけではないことをあることないことデッチアゲては暴力のネタにしていたようです。

私の3歳頃の記憶だと思われますが、コタツ机をはさんで向こう側とこっち側で両親が私のオモチャや、そのへんにあるモノをお互いなげつけあって、私と弟がなきわめくのもかまわず戦争をくりひろげていました。

親戚の婆さんが昼間に突然訪れては、若い嫁に茶を出させ、偉そうにネチネチと説教やイヤミをのべ、かえって行きます。
そして父親にあることないことをチクっては暴力のネタを追加していました。
��いまさら私が擁護するのもナンですが、母親ほど家事を完璧にこなす人間はいません。これほどまでイジメのネタがほしくてたまらない野獣一家に嫁いできたのです)

とついで来たくせにメシを食らうだけなのか、働け!という父親に従い、母親は近所会社勤め始めました。
しかし、仕事をはじめて数日後、あることないことを吹き込まれて逆上した父親が自ら、会社に母親を迎えに行き、
「今すぐ辞めて帰宅しろ」
と連れ帰ったそうです。
その後はDV経験者なら想像がつくでしょう、
「タダメシ食らいめ」
「働きもしないで親戚や近所中の笑いのタネになりやがって」
という、典型的な嫁いびりの地獄が繰り広げられたのでした。幼少の私の記憶にもこれらの出来事のパーツが残っているのです。



この頃かと思われますが、母親は聖書研究をはじめました。私が3、4歳のころです。
社会経験も人生経験も乏しく、幼い子供を2人かかえ、おそろしい親戚の野獣どもにおびえた若い母親はワラにもすがる思いだったのでしょう。
昼間たずねてきたエホバの証人の、弱者をとりこむあの”証言”にまんまとかかったのでした。
学生時代から読書好きだった母親は、すでに聖書に関する解説書などを何冊も所持していて、親しみがあったものと思われます。

そして私が小学校にあがるころには本格的にエホバの証人の集会に出席しはじめ、伝道(エホバの証人の布教活動)にも参加するようになりました。
それから1年たたないうちに、父親から迫害が始まりました。
ここからは私の記憶にも強烈に色々と残っています。



小学2年生の時でした。朝学校に行こうとするとランドセルがありません。
前日の夜、宿題を済ませたノート、時間割どおりの教科書、連絡帳、絵の大好きだった私が必ず持ち歩いていた自由帳、小学生の女の子なら誰もが大事にするペンケースと大好きな鉛筆や消しゴムがすべてつめられていたランドセルです。

寝る前にいつもの場所にきちんと準備していたのに、どこを探してもないのです。
探すうちに時間はながれ、登校班の出発時間には間に合わず、私は遅刻することにおびえて泣き出してしまいました。(当時の学校教育は厳しいもので、遅刻や欠席、忘れ物はものすごい恥ずかしい思いをさせられたものです)

昼近かったでしょうか、あるわけないと思いながらも母親は捜索範囲をひろげ、フロ場のドアを開きます。


・・・真っ赤なランドセルが湯船に浮いていました。
中身の教科書は水分を含んでヨレヨレでした。鉛筆などは一日乾かさねば使えない状態だったでしょう。
ノート類は買いなおさねばならなかったでしょう。

2年生の残りの月日は、ヨレヨレの教科書をそのまま使い続けました。
私が恥ずかしいからなんとかしてほしいというと、母親はスーパーの包装紙を使ったブックカバーをつくり、教科書にかけてくれました。
でもスーパーの包装紙なんかかかった教科書はもっとはずかしかったです。
でも逆らえませんでした。ビニールでできた教科書用のカバーを買って、なんて。いえませんでした。

母親に、先生に事情をきかれたときは「ぬらしてしまった」と言うように、父親のことは言わないように言われました。
おそらく家庭の事情は一切学校関係者に伝えていなかったと思われます。

それから小学5年生のころまで、強烈な迫害が継続しました。


集会に連れて行ってやる、と言い出した父親が車に私、弟、母親をのせて車で出発しました。これも二年生のころだったと思います。
道中、いつもバスでいく道のりとどうも離れていきます。
私と弟はのんきにテレビCMの歌を歌っていました。はっきり覚えています。父親の車で集会に行くなんて。すごく嬉しかったのです。

ところが突然、母親と父親の口論がはじまりました。
車中に一瞬にして緊張が走りました。
「どうしてここを通るのッ!?おろしてッッ!!!」

母親は何を思ったか、助手席のドアをあけ、飛び降りようとしています。
私はおびえて泣くことすらできませんでした。
母親は後部座席を振り返り、


「あんたたちっ!一緒におりなさい!!集会に行けなくなるわよっ!!!」


といって飛び降りました・・・・・。


父親の運転はその瞬間ひるみ、速度を落としました。


��お母さんからはなれるとしぬかもしれない!!!こわいよう!!!!)
私と弟は泣くこともできないほど切羽詰り、もう、無我夢中で車から飛び降りました。


それから10分後くらいまでのことを覚えていませんが、母親が弟を抱え、私をつれ、集会場まで歩いて行ったのを覚えているため、全員大きなケガはなかったと思います。

なんか最近まで封印していたのですが、今思い出してもおそろしくて震えのくるような記憶です。

小学生の子供に走行中の車から飛び降りるようにって・・・・・
ひどすぎます。なんでこんなふうに私らを育てたんでしょう。20もすぎたような、父親なんか30すぎたような、健常で金にも困ってなくて、いい大人が・・・・



その後くらいからだと思いますが、週3回の集会が終わり自宅にもどると、

子供の好きなレコードはめちゃめちゃに割られ
子供のおもちゃはめちゃめちゃに壊され
母親と子供たちの服はビリビリに破かれ
一生懸命子供が書いた絵は破かれ
子供の写真は破かれ
母親の内職の道具は隠され、内職の商品は隠され
子供がかわいがっていたぬいぐるみは破かれ
次の日の朝ごはんの食材は生ゴミ入れに入れられ

子供の寝室にはビール瓶や皿やコップが粉々に砕かれたガラスがぎっしりとばら撒かれ
部屋の電気はペンチで切断され
ガスコンロは破壊され
炊飯ジャーは破壊され



毎集会後は小学生の私と弟と母親はまず部屋にばらまかれたガラス片を片付け、ろうそくの火をともし、かくしておいたパンを出して三人で分けて食べ、ろうそくの炎のあかりで宿題をし、小さな子供は23時ころにやっとさむざむしい家で、野獣と化した父親の足音におびえながら眠りについていました。

ガラス片の片付けの際、たまに小さなケガを負ったりしました。
母親は、「でも大きなケガをしたことないわねぇ。エホバがまもってくださってるのね」
などと言っていました。

ものすごくさむざむしい思い出です。いま振り返っても記憶がすべてうすぐらーい灰色なんですね。
電気がマトモにつかなかったんで、そういう記憶なんでしょう。
宿題は夕方の明るいうちに済ませる必要がありました。できなかったときはろうそくの明かりでした。


あと、我が家は一階が父親の領域、二回は子供と母親のスペースになっていきました。
フロや水周りは一階にあるので、子供のころは特に、お風呂やトイレが恐怖でした。
階段の上から二段目はすこしきしむので、子供なりに音をたてないやり方を習得していました。
トイレにいくとき、影や音を出さない動き方など、自然に身を守る方法として身についていました。

今でもきしむ場所などはリアルに思い出せます。恐ろしい記憶でしかないですが。


幼少期、一番怖かったのは、母親がPTAの役員などになり、会合などで出かけてしまうことでした。
つまり、家に私たち子供と父親だけが残されることを非常に怖がっていました。
母親は
「いつもエホバに祈りなさい。お父さんは人間なのよ。あなたたちの親なのよ。敬いなさい。怖がることないのよ。」
といつもいっていました。

でも、私たちだけが家に残されたときは、いつもやるんです、精神的暴力を。


おびえながら二階で息を潜めてすごしていると、あの、階段の上から二段目のきしむ音がきこえ、
心臓が破裂しそうなくらいドキリ!!!とします。

父親が足音をひそめて二階にあがってきたのです。

父親の顔を恐怖の表情でみつめる私と弟。
自分の娘と息子に、こんな鬼をみるような目つきで、おびえた表情で見上げられた父親気持ちってどんなのでしょう。


きっと深い深いやりきれなさ、虚しさ、腹の底からにえくりかえるような怒りがこみ上げることでしょう。


父親は必ず、私たちの目の前で、母親の聖書の隠し場所から探り当ててきた書籍や雑誌類、エホバの証人仲間と撮った写真などを破り始めます。
ものすごい力です。ハードカバーの本を目の前でひきちぎります。表紙を引き裂きます、素手で。

そして、子供の大事にしているオモチャをペンチをつかって破壊しはじめます。

弟は嗚咽から、ヒィッとおしころしたような鳴き声を搾り出します。つられて、私が恐怖の絶頂から震えとともに咽び泣きはじめます。


父親はいっそうキレるでしょう、母親の下着類をひきちぎりはじめます。


小学生の子供の前で、ひととおりを一言の言葉も発せず、凍りついた悪事を終え、野獣はゆっくりと階段を降りていきます。



私と弟は、恐怖に耐え切れず、二階から外への脱出をこころみました。
遊びで覚えた、二階から庭にある母親の内職用のプレハブ小屋の屋根をつたって外に出る方法です。
素足で、もっと小さなころ通った幼稚園に逃げました。

ブランコにのり、母親の帰宅を待ちます。この幼稚園でまっていれば、必ず目の前の道を母親が通るのです。
外は野獣の息が届かず、本当に開放的な空気でした。

小さな子供にとって、真っ暗な夜の中、外のほうが安全なのです。



母親が帰ってきました。
夢中で走り寄る私たち。
母親は

「なぜ家で待たないの!?そんなにお父さんがこわいの?お父さんは人間なのよ?人間より神を恐れなさい、祈りなさい。信仰が足らないから祈らない、お父さんに「やめて」という力をエホバにもらえないのよ!」



誇張などはしていません。
こんなのが5年生まで続きました。栄養は学校給食に頼りきりだったと思います。
母親は服をすべて破り捨てられるため、父親の着古し(つまり男の服)を着ていました。
私と弟はこんなわけでオモチャを持ったことがほとんどありませんでした。
普段着はほとんどなかったため、制服で過ごしました。
母の内職は父親が商品を隠したりミシンを壊したりするためマトモに続けられず、母方の親戚からの支援金や、父親がキレて投げつけてきた小銭などで生活していました。


父親は親戚の人間をおそれ、私たち子供の教材に手を出すことは、ランドセル事件以降しませんでした。おそらく母親が親戚にあのランドセルの件を訴えたと思われます。

当時は児童虐待といった概念、ニュースがまだあまりきかれない時代でした。スパルタ教育すらまかりとおっていたような世相だったので、このような状況も母親にとって、どこかに訴えるべきという認識にいたらなかったことなのでしょう。


家に入れてもらえずダンボールの中で寝た冬の夜、親子三人で1袋のパンのみですごした日など恐ろしくてさむざむしくて、信じられないような出来事ばかりでした。


そしてDVを生み出す家庭、そして過程、それにつけこみ弱者を取り入り、家庭崩壊の連鎖を生み出すエホバの証人。
社会的経験のない結婚がもたらす悲劇、付け入るカルト、苦しむ人々を酒の肴にする権力のある人間たち。


私は子供時代の経験を決して無駄にはしない。
そしてこのような状況を作り出した、許した、エホバの証人の組織を心から憎みます。