訪問があった

エホバの証人の訪問があった。

カメラ付きインターホンですぐにそれとわかった。



私が引っ越すたびに私の母が、現地の会衆にたまに訪問してもらえるよう

手配をかけていることは予想しており、前々から何回か訪問があった。





今までそれの全てに応対してきた旦那がとても嫌がっていたが、

私は「訪問拒否」の意思を示せば当分は訪問対象から外れることを知っていたので、

前々から訪問者には一言言わなければ、と思っていた。



向こうも私が元信者であることを知っていて訪問してきている可能性があるので、

応対するのはとても億劫でイヤだったが、この日初めて私が応対した。



ドアの前にいたのは初老のご夫婦。身なりや物腰から、おそらく長老夫妻ではないかと思う。

平日昼間にはもぬけの殻と化すマンションだから、

私がドアから出てくると(あっ・・出てきた・・・・)という緊張した面持ちがすぐに見て取れた。

その気持ちは痛いくらいわかる。

私自身も長期間耐えてきた感覚だから。それは初老の大人とは言え同じだろう。







応対すると、夫妻のうち、ご主人のターンだったのだろう、

男性がやさしい口調で話し始めた。

「くつろいでおられたところ、出てきてくださってありがとうございます。実は」

といいながらビラのようなものを取り出しにかかる。



私はもう一人の婦人のほうに視線を走らせた。

品の良いマダムとも表現できるような服装のその婦人は、私と視線がぶつかる前にサッと視線を下にやった。

大変ひきつった面持ちで笑顔はない。



この表情を見て、瞬時にさまざまなことを悟った。



やはり、実家の母親からの依頼でこの訪問は寄越されており、この夫婦は私が元信者であることを知っている。

そして応対した私の服装や表情を見て、私が信心を離れたことを何一つ後悔しておらず、

むしろ自由であり、証人でいたころより幸せであることを知ったのだろう。

つまり、この私には少々の訪問で付け入る隙などは持ち合わせていないことを

向こうも一瞬のうちに悟ったのだろう。





ご主人は少々へんな間をもたせたあと、おもむろに

「今日はぜひともお伝えしたいことがあり・・・聖書について・・・」等、話し始めた。

最近は「エホバの証人」とは一切言わないような手法なのですね。



相手がどういうふうに話を進めるか手に取るようにわかる私は、

相手が文章と文章の間に一呼吸入れるのを見逃さなかった。

間髪いれずに「うちはちょっと。」と断りの文句を一言返す。



ご主人は「ああ、そうですか、あの、わずかな時間で・・」ともうひとかぶせ

相手の本意を見極めるための常套句を差してくる。



何を言えば相手が引き下がらざるをえないかを知っている私は

「すみません、怒られますので」と切り返した。



そして、向こうの気持が痛いほどわかる私には非常に言いづらい台詞を切り出した。

「もう今後は一切うかがっていただく必要ありませんので」

向こうの表情を見る余裕はなかった。



「ああ、そうでしたか。今日はわざわざ戸口に出てきてくださりありがとうございました」

と大変丁寧なあいさつを受けてからドア越しにお別れした。






私にはわかる。

拒絶されたのは彼ら自身ではなく、彼らの信条である。決して訪問した人間自身が否定されたのではない。



でも弱い人間ですから。

家の人が良い反応を示した時はどれほど救われるか。

うだつのあがらない自分の人生が、ある一人に認められたかのような瞬間なのだ。



若者が自分と年端の違わず、自由を謳歌する別の若者から帰れと言われた時は

どのくらい胸をえぐられる気持ちか。

完全奉仕の勤めを終えた帰途は重いグレーに沈み、さらに帰宅後のそして明日からも延々と続く

拒絶される日々は鉛のように重いのだ。














常に逃げに徹するエホバの証人脳

エホバの証人現役時代は、常に自分が誰かに見られていて

頑張ったことはすべていずれどこかで報われると思っていた。

幼少時からのその思考回路はその先何十年も私の考えを支配したと思う。




「常に神に見られているんですよ」

「悪かったことはすぐにバレて皆の前でバラされますが、

良かったことは、まあすぐには無理ではあっても、いずれは報われて自分に返ってくるでしょう」




こんな洗脳に今もどれだけの若者が操られているのか。

目を覚ませ。




会社勤めをしてみろ。

ストレスで鬱になった?胃潰瘍だ?通勤がきつくて腰を悪くした?

誰もかわいそうだなどとは言ってくれない。

耐えられなければ勝手に脱落しろ、の世界だ。

どんなに理由があろうが、すべてが本人の評価に直結する。




こんな時、エホバの証人どもの脳なら即座にこういう思考をするだろう。



「こんなに苦労しているかわいそうな私を神が見ていてくれる。

会衆の人がきっと気づいて世話してくれる。いろいろな面倒な奉仕を大目に見てくれるだろう。

そしてこれが"貯金"(宝とやら)になってかならずこの先いいことがあるに違いない」



実際に脱会したはずの私を、この腐った思考は就職後も5、6年間支配しつづけた。

こんな厳しい局面なのだから何か"神的"なものがきっと見ていて、何らかの形で報われるはずだ、と。



完全に解脱できていない自分を認めたくなくて心の中でも言語化こそしていなかったが、

無意識にこのような甘い希望を抱き日々のつらさを乗り越えていた。



辞めてまた一から出直そうかな、と考えたこともあった。

しかしそれもまたエホバの証人脳にほかならないのだ。



「この仕事が無理なのは、きっと神のご意志でなかったのだろう。

また新しいのを探せばいい。どうせ仕事などこの世にいる間だけなんだから。

新しい世がくればすべてリセットだ。

それにこんな正直な人間である私の素質を、新しい雇い主は見事に見抜いてくれるに違いない。それが神のご意思なら。」



とこうなる。






30歳過ぎて、現職がツラいから辞めて出直し、などという行動は即ち人生の敗北だ。

特別な技能や(いわゆる"この世で")即戦力になる能力でもない限り無理だ。



0から生活を建て直すハメになるが、30過ぎて一から面倒見てくれるような会社など

このご時世ないだろう。期待するほうが甘い。





そしてそんな"見えない誰かが善行を必ず見ていてくれる"的な甘い考えの

エホバの証人たちは、

何のスキルを身につけることなく

人生に何を積み上げることもなく

まるで蜃気楼のような"新世界"を夢に見つづけて無為に時を過ごし、

税金も納めないくせに生活保護に手を出す者も現れるんだろう。